学校用の本を買う時はわざといちばんボロい古本を選ぶようにしてる。線とかいっぱい引いてあると、読む気になるじゃん。余白に以前の持ち主のコメントとか書いてあって面白いし。私が持ってるウィリアムズの倫理と哲学の限界って本には、“もっと明確に書いてください”とか“簡略化しすぎるなよ、クソ”とか書き込んであった。授業用に買った本を売るべきか売らないべきかちょっと迷い中。後で読みたくなるかもしれないし。本ってめっちゃ重いから、扱いに困るよね。特にアメリカの本って、馬鹿でかいんだもんなあ。日本の文庫本は軽いし、趣があって好き。

ブラジル音楽のリサーチペーパー書いてたよ。1枚と5枚じゃ、ぜんっぜん違うのに、7枚と11枚じゃ、同じくらいのように感じるなー。ブラジルのこと調べるとなると、自動的に人類学になってしまうんだよね。人類学は嫌だなーって漠然と感じていたけど、いろいろ読むうちに、かなり見直した。人類学というのは文学だなあと思ったりした(超勝手な解釈だけど)。 人類学って、見た目ていうか聞こえで勝負って感じじゃん。すごい響きがカッコイイ言葉とか言い回しを使いまくってさ。哲学もそうといえばそうだけど、人類学は、別にその言葉をわざわざ使わなくてもいいところで使うんだもん。かなり詩に近いというか。そのセンスが、すごいと思う。それにしても人類学者って、すべてのことを結び付けないと気が済まないんだろうか。いろいろこじつけすぎだと思うよ。でもそのこじつけ方(発想力)には感心する。人類学を見ると、そんなどうでもよいことによく真剣になれるねーとか思っちゃう。それはそれで、結構尊敬するけど。でも哲学については全然そういうふうに思わないんだなー。哲学は、fundamental だ(と思う)からなあ。哲学は学問界の仏教のようだから、どっちも好きなんだな。人類学も哲学も、冷めた視点で見れば、些細なことに大きな名前をつけて喜んでるように見えるけれど。

やりたいこと多すぎ。でも、そのどれもが面倒。哲学やってるなら、ドイツ語かフランス語か古代ギリシャ語かサンスクリットとかを学ぶのが普通だけど、全然違う言葉を習っているから、なんか、おかしな人のよう。いろんなのに手を出してる人が好きなんだけど、そういう人ってあんまりいなくて、なんとなく肩身が狭い思い。MAなら2年間だから頑張れば結構非現実的ではないのかも、と、昨日から思い始めた。でも根性無いからなあ。やりたいようなやりたくないような、自分でもよくわからないな。いや、やらないけど。難しい本をいっぱい読んでいる人になりたいと思うけど、こんな気持ちも学校を離れたらすっかり無くなってしまうのかな。他人からどう思われるかしか気にしていないからなあ。大学て居心地良いていうか、浮世離れしてるというか、なんだか、まだ居座りたい気分。毎日全然楽しくないのに。超辛いのに。執着する癖がまた出たな。学期末だからセンチメンタルになってるだけだね。あとで戻ってくればいいや。

今日、私の倫理学の先生の本を図書館で借りてみた。ペーパーを書く時って、先生はどんなのを期待してるのかな、って想像しながら書くじゃん。で、先生と同じように書けばいいんだろうと思ったら、猛烈に先生の本を見たくなったの。先生は今年新しい本を出したけど、それは借りられてるから、8年前くらいの本を借りた。ちょっと読んでみたら気付いた、ほほーー、やっぱり、喋り方と似てるね。文章のスタイルも。以前、エッセー連載を読んでからその著者がラジオに出てるのを聞いたら、あら、話し方、エッセーのスタイルとおんなじだー、って思ったのを思い出した。でも、本は真面目な哲学の本だから、あんまり面白い(笑える)とこは無いけど・・。具体例はちょっと面白いかもという程度。授業は、かなり笑えるよ、喋り方が変なんだもん。結構、面白いこともよく言うし。いつも目をすごく細めてるんだけど、いきなり見開いたりする。風貌は、典型的なドイツ人(アメリカ人だけど。)て感じで、なんと、そっくりさんを学校で2人も見かけたことがある。ひとりは化学の先生なんだけど、ほーんと、そっくり。背丈や猫背や口髭や髪型まで同じなのがスゴイな。この人のほうがちょっと痩せてるけど。話それたけど、最近、私は倫理学の先生に影響受けすぎてるんじゃないかという気がしてきた。だって形而上学も同じ先生だったからさぁ・・。なんか、この先生個人の傾向を哲学全体の傾向だと思ってしまう。最初は先生のことあんまり好きでもなかったのに、最近は、先生すごいなーーって超感心したりしてるから、なんだか・・・だんだんと先生に洗脳されているのだろうか・・・・な〜んて。

今日の授業は、ウィリアムズの哲学には限界がある、っていう考えについてだったんだ〜。ウィリアムズは、勇気あるねぇー。今までの倫理哲学者はみんな間違ってた、なんて言うんだもん。でもこの考えには感心したなー。デカルトとか、カントとか、まぁ、ほとんどの哲学者は、できるだけ一般的な、どの状況にも当てはまる理論を探したじゃん。で、そのユニバーサルな理論にあてはまらない個別の出来事が出てきたら、それは排除するの。ソクラテスがこの伝統を確立したんだろうね。けど、ウィリアムズは、その逆の方向で、個別の出来事を考えるべき、と思ったみたい。あら、私が説明しようとするとずんぶん陳腐な考えみたいに見えちゃうなあ。結局ウィリアムズってrelativistなのー?て感じもするけど、彼自身はもちろんrelativismも否定してる。Foundation無しで何らかの思想を持つ(=人間として生きる)ことなんかできんのかね。この、個々の出来事にはユニバーサルな法則があるに決まってるんだ、っていう考えは哲学のドグマなのかも。

昨日ウィリアムズの本読んでた時も、おぉーーこれはすごい、と思ったことがあったんだけど、今思い出すと別にぃって感じなんだよねぇ。それはね、うちら、人の行動やその人自身に対して何らかのリアクションを持つじゃん。で、“彼は間違ってる”、“正しい”、とかは道徳的なリアクションだけど、“キモイ”“面白い”とかは道徳的じゃないじゃん。しかしウィリアムズは、こういうdistinctionも、ある一定の道徳観によって生み出されたものだから、うちらが道徳的じゃないと思ってるリアクションも、実は道徳的かもしれないんだよ、と言う。で、だから何なの・・?というのが私にはわからないんだけど・・・・。しかも私の解釈は完璧に間違ってるかもしんない。けどこれ読んだ時かなり感心したんだよぉ。思い込みだったら悲しいけど。

それと、今日疑問に思ったこと。自分の視点から抜け出すことは不可能だから、Objecrtive Truthが何なのかは永久にわからない、っていう意見があるじゃん、Humeとかかなぁ。その説明をする時に先生が“神にすら不可能”って言ったの。なんでーー? 神って、そんなもんなの? 一定の視点しか持ってないの? それとも他の理由があるのかな。

今日授業中に思ったけど、やっぱ哲学以上に私の心を動かすものは無いと思う。哲学は難しいから、面倒、とか思うこともあるんだけど、哲学に出会って自分はラッキーだったし、この機会を無駄にしないように自分の力いっぱい哲学頑張るべきだよ。(こんな哲学に対する信仰(?)はちょっと宗教じみてる気もするけど・・。それに、自分をいちばん感心させることを行うのが幸せなのか? 自分の幸せが自分の目指すべきことなのか?という問題が出てくるね。これだけじゃないか。もっと問題はあるけど・・・。こんな風な取留めも無い考え方はせずにもっと体系的な考え方をしたい。)

最近気付いたけど、アリストテレスの倫理は孟子のようだね。アリストテレスは、善を生まれながらに持ってるとは言ってないけど、善への傾向みたいのは持って生まれてくる、と言ったらしいから。孟子も、性善説、って言われてるけど、実際は、“善になる可能性”を持って生まれてきて、あとは環境に左右されて人は良くなったり悪くなったりする、って言ったから。ふーん、そうかもねー、ってあんま深く考えてなかったけど、ウィリアムズがこれを批判しててちょっと感心した。もともと、善を目指すような魂みたいのを持ってるなら、なぜ環境に影響されるのか? それと。環境に影響されて悪人になったあと、なぜ良い人になることがその悪人にとって良いことだと言えるのか。もちろん、社会や、悪人本人以外にとっては、悪人が善人になることは望ましいけど(社会が平和になるから)。アリストテレス孟子も両方、善人になることは、その人本人に利益があることだ、と言ったぽいから。その辺が不明。なんか、現在の傾向では、古代の哲学はすべての基本だから学ぶけど、あんま頑張って批判とかしない、って感じがするんだけど、古代の哲学を真剣に批判するのはかなり有益な気がする。古代の哲学って、奴隷の話とか出てくるからあんま現代と関係無いような気がしちゃうけど、それは罠だよね。実際は、古代の人が言ってたことって影響力強すぎて、現在は常識みたいになってしまったから、気付きもしない。そういう常識を批判する、なんて考え付きもしない。うちの中国哲学は、宗教家(仏教)の先生がやっているからだろうけど(はっ、こんなこと言ったら偏見かぁー。宗教家でも立派な哲学者はいるし・・。ていうか実際、哲学ってちょっと前までは宗教じみてたよね)、あんま批判的じゃないんだよね〜。充分批判的だと思ってるっぽいけどさ、彼自身は。ブッシュは馬鹿だ、とか言ってれば批判的なんだと思ってるからねぇ・・・ああいう人達は・・。(もちろん私もブッシュは馬鹿だと思うけど。念のため。でももう聞き飽きた。)孟子のこと勉強した時も、“あなたたちは、人間はもともと善だと思いますかー? 悪だと思いますかー? ”とか言って、小学校みたい。もっと、性善説が本当ならそれは何を意味するのか、とか、その論理に矛盾は無いのか、とか考えるのが哲学だろう、って思うんだけど。しかしこういう考え方は古代ギリシャ人に影響されているんだろうな・・。逃げられない!

バーナード ウィリアムズの文章はホント回りくどくてわかりにくい! こんな文章しか書けないのかしら? この人は・・。具体例を増やして欲しい、切実な希望。ちなみに、アリストテレスは英語だとアリストートーって感じ。プラトンはプレイトーで、ピタゴラスは、パイThaゴラス パルメニデスは、パーrミニディース、デモクリトスはディモクライトス、ソクラテスはソ〜クラティース。

p34 Aristotle's ethics is based on well-being (one's whole life having a good shape/ not happiness that changes day to day. )= life worth living
p35 ppl are essentially social. pracitcal reason is needed for theoretical reason. practical reason is needed for each individual(not just for society as a whole (like Plato thought))
certain excellences of character or virtues = internalized dispositions of action, desire. and feeling. (virtues=具体的には courage, self-control etc)(virtue=certain dispositions)
Williams は疑問に思う、courage, self-control 以外の、もっと文化特有のもの(charactersとか?)は含まれるのだろうか、(含まれてしまうように思える。)これこそ重要な問題。
slaveryやwomenはともかく、もっと決定的ないかがわしさは agentがconcerend with himselfなところ。 (つまりegoisticである)← Aristotleが modern哲学者と違うのはココ。
P36 ところでinternalized dispositions of action, desire. and feelingというのは知的なdisposition(傾向)であってjudgement(practical reason)が介入するので単なるhabitでは無い。他人(のcharactersやactions)に対するreactionも介入。
Doctrine of Mean = celebrated but least useful
Doctrine of Mean = every virtue of character lies between two correlative faults or vices.(悪=excess or lacking)
なぜusefulじゃないかっていうと、unhelpful analytical model(しかも矛盾してる)だし、moderation を推薦してるのはdepressingだから (ウィリアムズは中庸は嫌いらしい)
Doctrine of Mean = 忘れ去られた方が良い
Doctrine of Mean implies - virtuous pplは自分が何をしているかわかっていて、他人をjudgeできる
私達はこれをいかがわしいと思う
理由1 innocence (virtue=unselfconscious / lacking the contrast with self / )
理由2 skepticism (no one knows enough about anyone to judge him/her)
理由3 one can have one virtue and not other virtues (Aristotle disagrees with this. he thought one can have all the virtues, otherwise he does not have any virtue./ practical reason needs dispositions of action and feeling to be harmonized) aristotleは、“ひとつの分野で抜きんでる”というごくフツーの考えを受け入れない。
p37 ethical dispositions - reactions to others の関係
ethical disposition itself structures one's reactions to others. 私が他人のlack of ceratin dispositionを見てどう思うか、というのは、私のethical dispositionによる。他人のlack of ethical dispositionを見て何とも思わないなら、自分もethical dispositionを持っていない、と見てよい(?)
ところで、reactionというのは曖昧な言葉であります。judgment, assessment, approval, disapproval これらすべてはmoral reactionsだ、と一緒くたにしていいのだろうか。それはmisleadingである。
理由1 suggests temporary superority (position of a judge) *1
理由2. suggests binary judgment. (of guilt or innocence)
理由3. supposedly directed only towards the voluntary. (only actions done through free will can be judged)
morality does not only provide a typology of judgments. (does not just concern with which reactions should be called moral)
p38 RATHER, it(justice?)'s concerned with "what reactions you may justly have."
so, justice (or morality?) requires "voice, supremacy, and ubiquity"
"nonmoral" と思われているreactions (such as dislike, resentment) さえもがmoral conscienceにdepended.<←なんでこれ出てきたの? 関係無さそうに見える・・>
<these various features of the moral judgment system って何を指してるの?>
これらのfeaturesが示すものは。1. supposed vastness of what is handed out (?), the finality of the only final justice there is (?). 2. it invites skepticism. "how ppl's character or dispositions could ever be the object of such a judgment?" なぜ自分のキャラクターやdispositionに責任を持たないといけないのか?)
しかし、moralityを持つためには人のキャラクターを完璧に無視して人をjudgしないといけないのだろうか。
Aristotleはこのことをちっとも心配していない。(freeWillの存在を疑わなかった)
"But Aristotle would not have understood the suggestion that this was the limit to the reactions appropriate to others because of their ethical dispositions." (this=?)
ethical dispositions = dispositions to react
だからrange of reactions は、ものすごく広いだろう。
Aristotle がppl are responsible for their own characters と考えるのは、charactersは環境やhabituationによって発達する、と言っているから、矛盾。
p39 しかも、Aristotleは、中年になるまではpractical deliberationをする能力が無いから道徳を勉強しても無駄(逆効果?)、と言っている。
若い頃はcharactersがまだ決まっていないけど道徳を理解できないから早すぎて、年取ったらcharactersが決まっちゃってるから手後れじゃないか。
(aristotleにとってethical philosophy=practical inquiry. virtue=part of well-being)
"Aristotle cannot reasonably believe that his reflections on the virtuous life and its role in helping to constitute well-being could play a formative part in some general deliberation that a given person might conduct."
だからethical philosophyの定義を、 "each person"に関わる子とではなくて "the benefit of the rest of us" に関わることだ、と変更しないといけない。
p40 Aristotleはskepticsのことを全然気にしていなくて、彼が気にしていたのはwrong valuesや bad characterを持っている人だったが、そのような人達をconvinceすることができない。
"Aristotle's answer cannot be given to each person, but it is an answer for each person." ---??? 説得はできなくてもひとりひとりに向けられたものだ、ってこと? ひとりひとりをjudgeする際のBasisになるもの?
"a bad man lacks certain qualities characteristic of human beings which are necessary for creatures to live a life typical of human beings."
問題なのは、this bad man's well-being and interests。
彼が自分のホンモノのinterestを取り違えている、ということが彼が悪である理由。
自覚しているinterestとホントのinterestは違う、なんて、誰が決めるのか、それが単なるlack of informationやrationalityとは関係が無い場合。例えば、自殺をしようとしている人に、“自殺することは君が本当にやりたいことではないよ”、と、どうして言えるのか。これは、将来、その人が、”あの時の私は間違ってた、本当は自殺をするのは自分のinterestではなかった”と認めたとしても証明はされない。洗脳されている人が、昔の自分は間違ってたし今よりもずっと不幸だった、と自分で思っても、洗脳の良さを証明しないのと一緒。つまりself validating changesは何がreal interestであるか、というのを示さない。こう考えると、real interest というのは個人的・心理的なものでideologicalでしかないんだろう、とあきらめがち。
p43 "general incapacity" from which he suffered in his original state and which has been removed by change が必要。このgeneral incapacityの特徴1.general implicationがあり、2.そのcapacityはeffectiveに functionしている人間が当然のように持っているもの。
つまり、real interestを認識することがreal interestである、のは、普通の人間に少しでも近づくため。・・・しかし、"not everything in someone's interest is necessary to his human functioning, or is something that he needs."
Theory of error(a substantive account of how ppl may fail to recognize their real interests) が必要。

あーーー疲れた。まだまだある。こんなことしてても時間がかかるだけだよ!! あーーなんかもう、焦る。すっごくイヤ! 要領悪すぎ!!!

*1:they occur even within a moral theory that does not encourage superiority!

今度のペーパーは、ウィリアムズの懐疑的な考えについて。もうねぇー、ペーパーが辛すぎて、反動で、怠けちゃうのよ、ひとつペーパーが終わると。・・言い訳です。今週末大変そうだなぁ。ウィリアムズのArchimedean pointっていうのがずーっと話題に出てきたのに何て意味なのか今日まで知らなかった。トホホ。論理的な生き物でいるだけで、自動的にmoralな生き物となってしまうという理由?らしい。つまり、どんなに倫理に懐疑的な人でも、知らないうちにmoralityにコミットしちゃってるっていう・・・。ウィリアムズは、そんなポイントは無い、って思っているんだけど。あ、懐疑してるだけだから、無い、とは言い切ってないかな。まだ出てきてない、これから出るかもしれないけどって感じかな。既存の倫理は、道徳的に生きよう、とすでに決めている人にしか通用しない、ってウィリアムズは言っているね。道徳なんかいらねー、って思ってる人をどう説得するのか、それが問題。ウィリアムズのアリストテレス批判について書こうかなあ・・・・・。

オウム真理教が気になってしかたないなあ。ものすごく怖いんだけど、怖いものみたさ、っていうか。LSDに対する気持ちと同じかも。オウムのことを初めて知った時から(地下鉄サリンの時に知った)、オウムに対して漠然とした恐怖を感じていたけど、今はっきりなんで怖いのかわかった。自分が彼らの無差別殺人の被害者になるかもしれないから怖いんじゃなくて、自分が彼らの一員になってしまうかもしれないと思うから怖い。自分のすべてを変えてしまうような影響力を持っているんじゃないか、と思ってしまって恐ろしい。怖くて昨日は夜中に起きちゃったもん。もちろん、オウムっていう特定の宗教団体だけじゃなくて、似たようなものに今後遭遇して感化されてしまうんじゃないか、っていう恐怖。政治思想でもなんでも。だって、私は、絶対にこれだけはしない!とか決めてることって別に無いし・・。そりゃぁ、殺人とかは絶対にしない、と思ってるけどさ、その考えをくつがえす思想に感化されちゃう可能性が無いとは、言えないよ。やっぱ正確に言うとLSDよりもずっと怖い。で、この恐怖っていうのは、オウム信者がオウムに入る前に抱いていた恐怖と同じなのかもしれない。自分はどうなってしまうかわからない、っていう恐怖を、確固とした信条を持つことによって解消しようとしたんじゃないかなぁ。その結果が、狂気。あぁ、恐ろしい。

昨日、オウム信者は真面目で頭の良い人達、って書いたけど、頭の良いっていう言葉はちょっといろんな解釈がありすぎだね。オウム信者は、中途半端に頭が良いって感じかなあ。ここで言う“真面目”は、真面目になることしかできない、つまり不器用ってことね。世渡りがホントに下手な人達。そういう意味では頭が悪い。客観的に自分を見れない、ってところも頭が悪い。こういう人達って、自己内省的って呼ぶのがぴったりだね。“まじめで責任感が強い。自分の弱点や欠点を過大視。劣等感を抱く。観念的理想主義。”あぁ、思い当たる節が多すぎる。私は責任感は強くないから、その弱みは無いかな。自分の欠点を過大視っていうのは、つまりは、プライドが高いってことだよね。“自分がこんな欠点を持ってるなんてありえない、自分はもっと素晴らしいはずなのに”っていう傲慢さから来ると思う。

「たいてい、全てを知性で切り捨てようとする人は、ものすごく恐怖心が強いのものだ。感情というものはダイナミックなパワーを持つぶん、非常に不安定で取り扱いが難しいものだ。そんな当てにならないも感情を使うよりも、論理や知性の方が信頼できると、知的な人はつい感情を敵視する。」(注:ここでいう“知的”は誉め言葉じゃない・いい意味じゃない)
ってオウム脱会者の会のページに書いてあった。納得。