もう5ヶ月ぶりじゃん! 最近は勉強してないよ〜。社会に出ると大変だぞ、とかいっつも脅されてきたけど、実際学生の頃のほうが数倍辛かった。今は楽だなぁ。何も考えなくていいもん。ていうか考えない方が良いというか考えてないだけというか?? 「学生のあいだが一番楽しくて楽だから満喫しといたほうがいい」、とかさ、よく言われるからすっかりだまされてた。わけわからん。

もう、やばすぎ。ファイナルペーパー。あさって提出なのに。もう全然時間無いし。なのにぃーー。さっぱりわからないわけじゃなくて、わかってるつもりなんだけど、言葉でちゃんと順序立てて書き表せないの。“死”についてなんだけど。ちょっと私には無理だーー、ていうかさー、前のペーパーの評判が良かったから、意気込みすぎてしまう? デビュー作が大ヒットしたバンドが次にどんなCDを作るかっていう問題に似た状況のような? そんなこと言ったらおこがましいけど。先生に話しに行ったら案の定余計にわからなくなったし。哲学の先生ってほんと、その点、困るよ・・。ていうか、ハイデガーの死に関する考えってほんと多種多様みたい。ハッキリしてないからいろんな受け止め方があるみたい。うやむやのまま終わりそう・・・・もう〜。はやとちりするのだけは嫌だからさあ・・・と慎重にしすぎるため、何もできずに終わる・・・

ハイデガー

ハイデガーのペーパー書いてる。最初はわけわからなくてどうなることやらと思ったけど、今はけっこう理解できた(と思う。)ほーっ、よかった。ダーザインとか世界内存在とか。実際とても面白い。現象学とか実存とか、今まで名前しか知らなかったことの内容がイロイロわかってきて嬉しい。ハイデガー勉強すると哲学の歴史の流れがわかる気がする。クラスの生徒が大学院生ばっかり(ていうかうちの哲学科の院生のほぼ全員がこのクラスを取ってる)だから、なんかすごい雰囲気。博士課程の人達と同じクラスを私が取ってるなんて、ちょーー不自然だよね・・日本じゃこういうの無いよね・・?? でも意外と彼らはおちゃめで、みんなでサッカーしたりしてるから、そんなに恐れる必要は無さそう・・。

ブラジルから家に帰還して、その2時間後にはもう授業。一ヶ月間コンピュータ・インターネット無しの生活はよかったなあ。ハイデガーのクラスは・・超怖い。びびりまくり。なんかみんな黒っぽい服着てるしさ。大人って感じだよ。半分以上院生だしね。まぁまぁ人数は多かったから良かったんだけれども・・。しかし先生が先月、日本にいたというから驚いた。ローティーとかが出てたイベントに先生も出てたらしい。某ウェブログに書かれていたやつじゃないの〜。ステキ。しかし・・あの本、あんな分厚い本、辞書以外で見たことないんだけど・・。クラスに座っててもすんごい場違いな気分だしさぁ。でもこのクラスを取らないと予定よりも卒業が遅くなっちゃうし。それは避けたいし。頑張るしかないね、もう。先生はかなり良さそうだから。ディスカッションとかが無いのを切実に望むのみだよ。

哲学のこと考えるとすごい気まずくてヤダナー。気まずいassociationが多すぎだなあ。院生が学部生と同じクラスを取ってるのがなんか気まずい。私が勝手に気まずいと思ってるだけだけど。そういえば、このあいだのペーパーの先生のコメントの中に、君は 哲学専攻に なるべき。って書いてあったの! 下線付きで。すっごく嬉しかったよ。ていうか、先生は私は哲学専攻じゃないだろうと思ってるのね・・。私は哲学専攻らしく見えないのかな。見かけとやってることにギャップがある人が好きだから、いいけど。でもさ、いかにも哲学専攻、ていう見かけなんて無いかな。いかにも数学専攻とかいかにも演劇専攻とかはあるけど。いかにも哲学教授、っていう見かけはすっごいあるね。顔が白いひげで囲まれてて超カッコイイの。哲学の学生って、オタク(悪い意味で)な人が多いんだろうなと想像してたけど、実際全然そうじゃないね。オタクな人とかキモイ人もそりゃいるけど、だいたいはもっと自由奔放な感じ。それを思うと、オタクって、ドグマティックな人のことのような気がする。ネガティブな狭い意味で使われる場合は。英語だとナードだろうけど、ナードはもっと幅広いんだよね。運動が好きじゃない人の総称って感じ。だから、すごいオシャレで映画とかアートとか音楽に超はまってる人もナードって呼ばれたり(自分で誇らしく呼んだり)。ジムに通って筋肉もりもりにしてるような人と敵対してるようなのがナードなんだよね。日本には筋肉もりもりの人なんてほとんどいないから、それがオタクかオタクではないかっていう基準にはならないんだけど。あーでもやっぱナードもすごい悪いconnotationがあるね。文脈によるけど。まーどうでもいいやこんなことは。話し戻るけど、不真面目そうな人が哲学に没頭してるのステキ。特にすごいアブストラクトなのとか。実践的なのじゃなくて。川端康成の雪国の島村が西洋舞踏を研究してるような感じ。ホントにいるんだよなぁ、そういうdetachedな人達。危なげな感じがいいなあ。ところで雪国、最近ふと改めて読んでみてびっくり、美しくて。目の前に景色が見えるような。最初と最後の文がスゴイ。日本語はいいなぁ。見た目も美しいのに、それに意味までついてるなんて。あぁ日本語を読む能力があってよかった。

1. Epistemologyで懐疑的なのとEthicsで懐疑的なのとの違い。ウィリアムズ - Ethicsで懐疑的なのは、倫理の知識が不可能だと思うのではなくて、倫理には人を説得する力が無いんじゃないかと疑うこと。
Epistemologyで懐疑的な人でも、知識は不可能だと思ってるんじゃなくて、疑ってるだけじゃないのかなあ。倫理の知識を否定しつつ倫理の中で懐疑的になるのは、可能だよね。倫理の知識には説得する力がないといけない、って前提で、そういう知識は無い、って言ってるんだから。なんかこんがらがった。でもさ、ほんと、説得される気が無い人を説得できる倫理なんか、無いと思うよ。それがあったら今頃世界は丸く収まっているね。あれ?丸く収まってるっけ。

2. 功利主義を実践しないほうが功利主義的に理想の結果を得られるかも。
これって功利主義への攻撃になるのかな? 功利主義的に良い結果を出すために意識的に功利主義を実践しないようにしてたら、功利主義を実践してるてことになっちゃうんじゃないのかなあ。でもやっぱ実践してないてことになんのかなー。功利主義って、どの範囲をゴールと決めるのかが問題っぽいね。長い目で見れば、良い結果に繋がることとかってあるし。塞翁が馬って感じで。そういう予測できない未来のことは計算に入れないんだろうけど・・個人個人で“予測できない”っていう範囲が微妙(大幅かも?)に変わってきそう。・・・功利主義者がいないほうが功利主義的に良い、っていうの、囚人のジレンマが良い根拠だね。功利主義者でも、功利主義は宣伝されないほうがいい、って認めてる人がいる。Sidgwickて人。すごいなぁ。秘密にするべきらしい。ハードコアだなあ。そのエリート意識がプラトンのようだ、ってウィリアムズが言っているよ。

3. ミル - カントのカテゴリカル インぺラティブは全然ロジカルな不可能性を示してはいない、だから従う必要無い。
カントって、カテゴリカルインぺラティブを証明してないよね。何であれがいきなり出てきたんだか不思議。キリスト教のゴールデンルールが元ネタなんだろうけど。カントの他の主張からの流れで見れば、カテゴリカルインぺラティブは人間がロジカルであるために必要なものだ、って解釈するのが自然だろうけど、そのへんかなり曖昧。カントの例って変なのばっかだしね・・。怠け者の例とかさ。怠け者は人類みんなが怠け者になっても、別に良いと思ってるんじゃないの? それと嘘をつくこと。嘘をつく人は、他の人には嘘をついてほしくなくて自分の嘘を真実だと思って欲しいと思っているから、矛盾してる、ってことなんだけど。でも、自分と他人が同じ事をしないとロジカルじゃないっていう法則は別に無いよね。自分のやってないことを他人から期待するのは不公平だよーっていう心情は出てくるけど、不公平であることがイロジカルってわけじゃないし。ミルは、結局カントが示してるのは、人類全員が嘘をつきだすのは誰の目から見ても嫌なことだよ、ってことだけ、って言う。そりゃあみんなが嘘ばっかり言う世の中だったら、かなり生きにくそうだけど。でも自分が今嘘をついたからって、みんなが嘘をつきだすようになるってわけじゃないよ。しかしカテゴリカルインぺラティブにはもっと(我々には分からない?)深淵な理由があるのだ・・・ってことなの? あ、でもカテゴリカルインぺラティブって、いろいろ解釈あるよね。マキシムをどのへんまで詳しくしていいのか、って問題もあるし。詳しくしすぎちゃうと、全然道徳的じゃなくなっちゃうし、幅広すぎるとミルから批判されるし。あーー、ミルは、Immoralityだと一般的に考えられてることにLogical contradictionは無いって言ったんだなあ、たぶん。Immoralityがユニバーサルになるのは論理的には可能、って言ったのかなあ。

4. 功利主義者との約束は、意味が無い。
何があっても約束を守ることを優先したら、功利主義が反対するディオントロジカルな行動になっちゃうもんね。長い目で見れば、約束をいつも守ってた方が功利主義的によい結果に結びつくんだ、って言うかも知んないけど・・・そしたらやっぱ功利主義を実践してないってことになりそうだしね。(→ 2)

5. カント - 道徳は完璧にアプリオリなコンセプトなのでどんなレベルの論理にも含まれてる。エンピリカルには経験できない。
カントはこの意見にも理由を提示してないと思うなぁ。道徳は、人間にしか無いもので、すべての人間(論理的な生き物)に共通してるものは論理(的に思考する能力)だから、道徳は論理的なはずだって思ったんだよね。普通、倫理ってエンピリカルなのと論理的なのが混ざってるよねえ。世の中どうなってるかっていうのが関わってくるもん。盗んじゃないけないっていう道徳も、人それぞれ所有するものがある、っていう社会だから存在するわけで、すべてのものはみんなのもの、又は誰のものでもない(ジョンレノンのイマジンみたい)っていう社会だったら、盗むっていう観念自体存在しないよね。そんな社会ってかなり不可能っぽいけど、一応想像はできる。・・・私これ全然わかってないわ。純粋理性と実践理性ていうの。もう、こんなんじゃダメだ。

6. 囚人のジレンマ
これはホッブズっぽい考え? 道徳的に生きた方が結局は自分の利益になるってことみたい。でもこれはエゴイストな人にしか通用しないよね・・。この囚人達の状況って普通じゃないと思うし・・。ホッブズが薦めるような社会では、道徳を宣伝しておいて自分だけこっそり非道徳的になるのがいちばん自分の利益になる(プラトンのリパブリックに出てくる透明人間になれる指輪を手に入れた人みたいに)。だからやっぱりエゴイストは道徳的にならないんじゃないのかな。ここでいう道徳的って結構曖昧だけど、嘘をつかない、盗まない、とか、普通に道徳って考えられてることかな。

7. ウィリアムズ - 倫理において、リフレクションは知識を壊す
これはすごいショッキング。哲学は倫理の知識を得られないってだけじゃなくて、知識を壊してしまうって言うんだもん。ユニバーサルな倫理は無いのに、それを無理矢理探そうとすると個々の文化特有の倫理を壊してしまうってことみたい。科学が、ユニバーサルな理論で迷信とか伝統的な思想を壊すのと同じ事。ただ、科学が扱ってるのはエンピリカルなことだから、いいんだけど、倫理は違うのね。普通は道徳をユニバーサルにするのは哲学の仕事だと考えられているけど、ユニバーサルな道徳なんてもともと無い。なんでかな? ・・・科学が扱ってるのはひとつしか無い物質世界のことだけど、倫理が扱ってるのはイロイロある社会の中のひとつだから。

8. ウィリアムズ - 4つのエゴイズム
① そのまんまエゴイズム(ちょっと定かじゃないけど、何々するべき、とかは全然考えずに、自分勝手なことしてるだけの状態かな)
② 誰もが自分の利益を最優先にするべきという倫理的エゴイズム
③ それぞれの人が自分の利益を最優先するという状態がおこるべきというエゴイズム
④ みんなが自分の利益を最優先するのが最善だというエゴイズム
②、③、④はそっくりだよ〜。どう違うのかな? ④は、“〜すべき”、とは言っていないね。これらのエゴイズムは功利主義に受け入られられるか? ミルは倫理的なエゴイズムには賛成ぽかった気がしたな・・・あれー違ったっけ。もー。ミルは、ちょっと面白いよね。誰もが幸せのみしか求められないんだから、幸せを目指すべきだ、っていうの。みんながもうすでに幸せを求めてるなら、幸せを求めなさいって言う意味が無いじゃん。それに個人個人が求める幸せが衝突することはよくある

9. ウィリアムズの関係相対主義の否定
やっぱ論理的に考えて正しいことと間違ってることが文化によって違うっていうのはおかしいから? ていうか正しいと間違ってるていうコンセプトに相対性が含まれてるなんて無理?ウィリアムズは、相対主義は、客観的な視点から複数の文化を観察しちゃってるから駄目なんだよ、って言ったみたい。ウィリアムズも、それぞれの社会にそれぞれの道徳があるのはOKって思ったみたいだから、相対主義みたいなんだけど、視点をそれぞれの社会の外に置いてないから、相対主義じゃないらしい。多分。