ネーゲル

今日はトーマス ネーゲルのThe View from Nowhere の7章、“自由”を読みました。この本は日本語では出版されていないのでしょうか? ネットで検索しても日本語題が見つかりませんでした。ネーゲルはめちゃくちゃ難しいです (泣)私にとっては。 代名詞が何をさしているのかわからないし、段落が変なところで変わるし、 なんか独り言みたいに取り留めがないように見えます。近代や現代の哲学者の名前がボンボン出てくるから、その人達のこと知らないと、わけわかんない。内容は結局は、“ウーン、この問題に解決策はまだ出ていないみたい、将来には解決策が見つかるでしょう。”と言っているんだよ。パーフィットと違ってめっちゃ慎重ですよ。そのぶん、読み始めた時は、この人いったい何が言いたいの?!といらいらしました。でもねえ、現代の哲学者ってこんな感じの人が多いのかもねえ。これが正しい!って確信してる哲学の先生って少ないんじゃないかなあ。

ネーゲルのThe View from Nowhereは、2、3、7章しか読んでなくて、今日読んだ7章はあんまり真剣には読んでないのであんまり分かってないです。 私は何回も繰り返し読まないと理解できないんですよ・・。超時間かかります。2、3章は論文書かなきゃいけなかったから頑張って何度も読んだけどそれでもやっぱちゃんと理解できてなかったらしい・・・。

一応サマリー
2章 “心”
ネーゲルはPhysical conception of objectivity を否定する。世間一般で“客観的”と言うと、主観的point of viewをすべて消し去ったものだ(Bleached out)と思われている。科学による現実というものの説明には、ひとりひとりの主観的な心は含まれていないよね。でもネーゲルは、主観的な見方も現実なんだから、主観を無視したら不完全な現実を捉えていることになる、と言う。完全なる客観性には主観も含まれていないといけないってこと。これが有名な “コウモリであるとはどんなことか”=つまり、主観。 につながるんだよね。コウモリの話しはこの本には出てこないと思うけど。で、その主観っていうのは、その視点を持っている張本人にしかわからないんだから・・・何だ? だからホントの現実は知り得ないってことかな? (やっぱ全然わかってないねえ・・・)とにかく、ネーゲルは還元主義者に反対です。二元論も一元論も認めない。

あー、細かいところは忘れてしまった
唯物論も唯心論も同じ穴のむじなだと言っているのは興味深い。最後のほうは印象深かった。主観的視点から形而上学を始めると(デカルトやバークリーはこれだよね?)、唯心論や独我論に辿り着いてしまうし、客観的側面から始めると、“自分”とか、主観性の居場所が無くなってしまう・・・、とネーゲルは書いてる。心を前提として考えると、体も心に含まれてしまって、体を前提にすると、心も体に含まれてしまう、ってことだよね? もし私の解釈が正しいなら、これは私も納得だよ。前提無しには一元論にも二元論にも辿り着けない気がする・・。それに、前提が違うから、一元論と二元論はずっとお互いを反駁できないんじゃないのかなあ。ネーゲルデカルトと正反対に客観的側面から考えてるけど、どうしてそうしたのか、理由が書いていない気がする。科学を結構鵜呑みにしてるって感じ。

3章 “心と体”
心身二元論への反対意見を提示。
Dual Aspect theory を提案。これはたぶんクオリアとかいうのと同じだと思う。人間の心や主観的視点は、脳の中の何か?に宿っている。その何か?は、脳無しでは存在しないが、脳とはまた別のものである。。。 しかもそんなこと言っておきながら、ネーゲルは、やっぱDual Aspect theoryもたぶん正しくないや、と言う・・・・。なぜならそれは汎心論へとつながってしまうから。脳という物質になぜだかわからないが精神が宿っているのなら、他のあらゆる物質に精神があったっておかしくないということになってしまう。(私は、それでもいいじゃん?って思うんだけど、ネーゲルは、汎心論を許せないみたい。ネーゲルは、現代の主流の考えから離れまいと必死だよね。)結局、この心と体についての問題にはまだ答えが出てないから、科学は頑張って解決索を探せよ、主観を取り入れることを忘れんなよ、という捨てぜりふで終わる・・・・。

7章 “自由”
もう今日の記事は長くなりすぎてしまったので続きは明日書きます