日本語と英語がごちゃ混ぜですみません。
(1) バークリーは、心の外側にあるものを把握することはできない、と言っているにも関わらず、神という心の外側にあるものの存在を信じているので、矛盾している。バークリーの哲学から神の存在を抜き取ったらどうなるか? 矛盾は無くなるか? または、別の問題が浮上するか?

Godがいないほうが矛盾は無くなるけど、ヒュームと同じ考え(ただ感覚の束があるのみ)に辿り着きそう。唯我論、または、自己すら存在しないってことになりそう。もし他者の存在を認めたとしても、他人が自分と同じものを見ているという証拠が何も無い。 (神様がいれば、神様がconsistensyやcontinuity of things をコントロールしている、と言えるけど。)

(2) バークリーは、どうやって自分がいなくなっても物は存在するということを説明するか? 誰もperceiveしていない物がどうやって存在しうるのか? あなたはどう思う?

この辺はかなりデカルトっぽいと思う。。 自分は、自分の観念 (idea)があるということをハッキリ感じ取れる。観念があるならその持ち主である自分が存在するに決まっている。自分の心、または魂の存在があることを、immediatelyそしてintuitivelyに知ることができる。自分のmindがあるんだから、他人のmindがあるという可能性をreasonによってmediatelyに理解できる。神の存在も同じよう自分の魂にreflectすることによって理解できる。(ちなみに、mindはindivisibleでunextendedでactiveなので観念では無い)しかも、神、またはomnipresent eternal mindの存在は、必然である。←(なんでだろー・・・。バークリーは、自分自身と自分の観念が神にdependしていると分かるから神はいる、と言っている様子だけど。神をpresupposeしてるだけっぽいし。)神はいつでもすべての物を絶え間無くperceiveしているので、神以外の存在がperceiveしていない時でもその物は存在する。(バークリーの唯心論は個人的には好きなんだけど、神様の存在を持ち出すところで破綻が始まる気がする。)

(3) E.J.ロウ は、どうやって形而上学は単なる私達の考え方の構造の研究では無くて実際に存在する世界についての探求であるということを説明するか? 何が可能か、という質問は、どんな概念を私達が使う言葉の意味に配置させるか、という質問に他ならない、と考える哲学者もいるが、ロウはこれに反対する。ロウは、形而上学は言語や文化にrelativeなものでは無いと主張する。どうやって? 彼は正しい?

これはさっぱりわかんない。ロウは、“独身男性が結婚している”ということは実現可能だ、って言ってるんだけど・・・・・どーして????? 独身男性が結婚しているなんて有り得ないじゃん。。。 言葉の意味から切り離して考えればいいの? そんなこと言ったら言葉を使って哲学をする意味が無くない? 私、全然理解できてないです (泣)。ロウは、“独身男性が結婚している”ということは可能で、その独身男性を独身男性と呼ぶことが間違っているだけである、とか言ってるっぽいんだけど。??? それと、同じ言語を使う人々の中から実に多様な哲学が生まれてきたことを考えれば形而上学は相対的なものでは無いとわかる、って言ってるの。でもそんなに多様じゃないかもしれないじゃん? どうなんだろう。もし違う言葉を話す同士が、同じ哲学を理解できたとしても、人間という種としての理解力の限界はある気がする。うちらが現実をそのまま把握することができるなんていう証拠は全然無いよね。でも、同じように、私達が現実を理解できないという証拠も無いか・・。

(4) ロウが紹介するqualitativeな変化と同一性の両立の問題に対する4つの解決策。どれが最も説得力があり、どれが最も説得力が無いか

1.presentism "a is F now"
時は今! 今以外の時は存在しない。だから“今”その物が持っているquality以外は存在しない。→この解決策は、変化も時間も否定してるので問題をすりかえているように見える。それにあまりにも常識からかけ離れすぎ?

ここから下はTemporal Realist Solutions
2.relativism "a is F-at-t"
すべての物のpropertyはrelational(時間や他の物と相対する)であり、intrinsic propertyというものは存在しない。essence(本質)が無いってことだよね。それじゃあ物の同一性どころか、物自体の存在を否定しているようだ。intrinsic propertyが無いのなら、qualitative changeも存在しないし。→ これは仏教だねえ。虚無だよ、世界は。私はこれが好きだよ。完璧に信じてるって訳では無いけど。
3.temporal part. "a-at-t is F"
Object a にはtemporal partというものがある。intrinsic quality of Fness (←変な言葉)は、aのtemporal partに宿っている。a as a wholeに宿っているのではない。temporal Partっていうのは時間によって生まれたり消えたりする部分のことだよね。そうすると、物のどの部分がtemporal partなんだか知るすべが無い。私は、全部がtemporal partになっちゃうと思うなあ。そしたら上のrelativismと同じに見えるなあ。ロウは、これもqualitative changeの存在自体を否定している、と言う。
4. adverbial. "a is-at-tF"
ロウはこれをサポートしてるっぽいんだけど、よくわからない。時間(t)は、“a は F である”という文の主語にも述語にも帰するものではない。時間は、述語を修飾する副詞なんだって・・・? intrinsic quality of Fness は a 自体にあるらしい。???

全体的に、qualitative changeや同一性を絶対に存在するものと思い込んでるロウがちょっと嫌だ。

(5) ネーゲルパーフィットはふたりとも心身二元論を否定する。どうやって? 彼らの理由は説得力があるか。

ネーゲル→ 魂というphysicalではないものを付け足してもそれがどうやって主観的なmental statesをサポートできるのか、の説明が無い。
1. 主観的なorderに属するもの(soul)が本質的に主観的な状態を持てるのかがわからない
2. もし魂が主観的精神状態を説明できると言うのなら、同様にphysicalなpropertiesを持ってるモノ(つまり、脳)の中に精神状態があると言える。

パーフィット→ 魂が存在するということには充分な証拠が見つかっていない。 (他にもなんか言ってるかな? 見落としたかな。)

(6) パーフィットは人物の同一性を否定してR関係の重要性を主張する。 ネーゲルは、二つの同一性の本質的な特徴を否定しつつも、同一性の存在自体は否定しない。ネーゲルは正しいか。

Simple Viewの2つの特徴 1.自己はいつでもdeterminateでないといけない、2. 自分自身はひとりしかいない (?)
自分自身が他の脳に移っても生き延びる、という状況はconceiveできるけど、だからって必然的にその状況が可能である、ということに繋がるわけではない。なぜなら私達の自分自身という概念は完璧では無いから。consciousnessの持ち主が無いのならパーフィットの意見も正しいかもしれないけど、脳というものがあるから、自己の存在への希望はまだある。実際に脳を半分に割ってそれぞれを別の人間に移植したり、少しずつ脳を取り替えていったりしたわけじゃないから、Dual Aspect Theoryが正しいという可能性は残っている。・・・ネーゲルはこういうこと言ってるのかなーって思うけど、勘違いかも。。ネーゲルってほんと何言ってるのかわかりにくい。

(7) ネーゲルは、客観的に見ると、決定論が正しいと思っても思わなくても、どちらにしろ私達に自由や責任は無い、と言う。これは主観を含めた客観視を取り入れれば解決する問題か。

intentionalにしろcausalにしろ、なぜalternativeを選ばなかったのか、の理由が無い。