今日、私の倫理学の先生の本を図書館で借りてみた。ペーパーを書く時って、先生はどんなのを期待してるのかな、って想像しながら書くじゃん。で、先生と同じように書けばいいんだろうと思ったら、猛烈に先生の本を見たくなったの。先生は今年新しい本を出したけど、それは借りられてるから、8年前くらいの本を借りた。ちょっと読んでみたら気付いた、ほほーー、やっぱり、喋り方と似てるね。文章のスタイルも。以前、エッセー連載を読んでからその著者がラジオに出てるのを聞いたら、あら、話し方、エッセーのスタイルとおんなじだー、って思ったのを思い出した。でも、本は真面目な哲学の本だから、あんまり面白い(笑える)とこは無いけど・・。具体例はちょっと面白いかもという程度。授業は、かなり笑えるよ、喋り方が変なんだもん。結構、面白いこともよく言うし。いつも目をすごく細めてるんだけど、いきなり見開いたりする。風貌は、典型的なドイツ人(アメリカ人だけど。)て感じで、なんと、そっくりさんを学校で2人も見かけたことがある。ひとりは化学の先生なんだけど、ほーんと、そっくり。背丈や猫背や口髭や髪型まで同じなのがスゴイな。この人のほうがちょっと痩せてるけど。話それたけど、最近、私は倫理学の先生に影響受けすぎてるんじゃないかという気がしてきた。だって形而上学も同じ先生だったからさぁ・・。なんか、この先生個人の傾向を哲学全体の傾向だと思ってしまう。最初は先生のことあんまり好きでもなかったのに、最近は、先生すごいなーーって超感心したりしてるから、なんだか・・・だんだんと先生に洗脳されているのだろうか・・・・な〜んて。

今日の授業は、ウィリアムズの哲学には限界がある、っていう考えについてだったんだ〜。ウィリアムズは、勇気あるねぇー。今までの倫理哲学者はみんな間違ってた、なんて言うんだもん。でもこの考えには感心したなー。デカルトとか、カントとか、まぁ、ほとんどの哲学者は、できるだけ一般的な、どの状況にも当てはまる理論を探したじゃん。で、そのユニバーサルな理論にあてはまらない個別の出来事が出てきたら、それは排除するの。ソクラテスがこの伝統を確立したんだろうね。けど、ウィリアムズは、その逆の方向で、個別の出来事を考えるべき、と思ったみたい。あら、私が説明しようとするとずんぶん陳腐な考えみたいに見えちゃうなあ。結局ウィリアムズってrelativistなのー?て感じもするけど、彼自身はもちろんrelativismも否定してる。Foundation無しで何らかの思想を持つ(=人間として生きる)ことなんかできんのかね。この、個々の出来事にはユニバーサルな法則があるに決まってるんだ、っていう考えは哲学のドグマなのかも。

昨日ウィリアムズの本読んでた時も、おぉーーこれはすごい、と思ったことがあったんだけど、今思い出すと別にぃって感じなんだよねぇ。それはね、うちら、人の行動やその人自身に対して何らかのリアクションを持つじゃん。で、“彼は間違ってる”、“正しい”、とかは道徳的なリアクションだけど、“キモイ”“面白い”とかは道徳的じゃないじゃん。しかしウィリアムズは、こういうdistinctionも、ある一定の道徳観によって生み出されたものだから、うちらが道徳的じゃないと思ってるリアクションも、実は道徳的かもしれないんだよ、と言う。で、だから何なの・・?というのが私にはわからないんだけど・・・・。しかも私の解釈は完璧に間違ってるかもしんない。けどこれ読んだ時かなり感心したんだよぉ。思い込みだったら悲しいけど。

それと、今日疑問に思ったこと。自分の視点から抜け出すことは不可能だから、Objecrtive Truthが何なのかは永久にわからない、っていう意見があるじゃん、Humeとかかなぁ。その説明をする時に先生が“神にすら不可能”って言ったの。なんでーー? 神って、そんなもんなの? 一定の視点しか持ってないの? それとも他の理由があるのかな。

今日授業中に思ったけど、やっぱ哲学以上に私の心を動かすものは無いと思う。哲学は難しいから、面倒、とか思うこともあるんだけど、哲学に出会って自分はラッキーだったし、この機会を無駄にしないように自分の力いっぱい哲学頑張るべきだよ。(こんな哲学に対する信仰(?)はちょっと宗教じみてる気もするけど・・。それに、自分をいちばん感心させることを行うのが幸せなのか? 自分の幸せが自分の目指すべきことなのか?という問題が出てくるね。これだけじゃないか。もっと問題はあるけど・・・。こんな風な取留めも無い考え方はせずにもっと体系的な考え方をしたい。)