昨日、ヤフージャパンにオウム真理教のニュースが出てたから、そのせいで興味持っちゃって関連サイトとか見たら衝撃を受けた。地下鉄サリン事件が起きた時ももちろん衝撃受けたけど、私は当時13歳とかだったし哲学や宗教に興味持ってなかったから、オウムなんて、変な人達ー、気持ち悪い、とかしか思ってなかったような気がする。でも今は大学で仏教のクラスを2つ取ったし、仏教って素晴らしいなぁーなんて思っているから、オウムの特殊な用語(仏教用語)とかにも違和感無いってことに気付いた。むしろ、根本的な教えは仏教なんだ・・・と分かって愕然とした。マインドコントロールなんていうと、なんか強引に薬物とかを使って洗脳する、っていうイメージが私にはあったんだけど、そうじゃないんだよね。信者が自分でよくよく考えた末に、これが正しいことだ、と確信したんだよね。もちろんオウムは薬物も使ってたけど、それは洗脳の決め手では無くて。社会の仕組みに対して疑問を持っているようなすごくクリティカルな人達が、オウムにはまってしまったんだよね。それに加えて、彼らはとにかく真面目、ってことも共通してると思うけど。「論理的な教義」(そりゃあ、基本は仏教なんだから、論理的。のちの犯罪行為の正当化は屁理屈と思うけど)に、「ものすごいカリスマを持った指導者」と、「身体に実際に起こる神秘体験」(こういうのってホントにドラッグ関係無しに起こるんだね)っていうのが重なったら、すごく強力だと思う。少なくとも、屈折した頭の良い真面目な人はひっかかってしまうだろう、っていうのがかなり理解できる。で、自分の意志で決意して入信するわけだから、あとで疑問が生じても、自分の意志を否定することになるからもうやめることはできなくて。強引に連れて行かれたんじゃなくて、自分の意志で決意した、ってことがいちばん強い洗脳の力になる気がするなあ。彼らは特にものすごくプライドが高い人達だから、自分を否定するってことはいちばん避けたいんだよね。逮捕されて改心した人達ははかりしれない苦悩があっただろうね。だって、10年くらい自分のすべてを捧げていたことを否定するんだもん。過去10年間の自分をすべて否定するなんて、並大抵なことじゃないよ・・。あれだけ見下していた社会に敗北した、というのを認めるのは、自尊心の高い彼らにとっては本当に辛いことだろうね。だから裁判の書類とか読んでて涙が出たよ。だって、その気持ち、“世の中無常で空しい、真理を確信して迷い無しに生きたい”っていうの、すごくわかるもん。そこでたまたまオウムに逢ってしまった彼らは、なんとも悲しい運命というか・・・。運命なんてもの自体あるのかどうか知らないけど。

それにしても、オウムの仏教の利用の仕方はあまりにも巧みだねえ・・。私もつねづね、仏教の、selflessとか観念論的な考えと、現実生活との折り合いはどうやって付ければいいんだろう、とか考えていたけど、オウムのようにすごい方向へ暴走してしまうこともあるんだね。まぁ、どの宗教でも暴走する可能性は高いけど。愛着を持たずに愛する、っていうのはどんなもんなんだろう。このあいだうちの中国哲学の先生が言っていたけど、ダライラマは、会った瞬間に、この人は自分のことを愛している、と感じさせるんだって。(うちの先生はダライラマに会ったことがあるらしい。)自分が世界でいちばん重要な人物だ、と感じさせてくれるんだって。すごいよねぇー、ダライラマ。今、東京講演をやっているはずだね。先日はアメリカにも来ていたけど片田舎には来てくれないからなぁ。セントラルパークの無料講演行ってみたかったなあ。

オウムは間違っている、と論理的に証明するのって至難の技っていうか、無理なのかも・・。もちろん、信者が本気で仏教を信じているなら、オウムは仏教の教えと矛盾してる、ってことは言えるけど。そうじゃなければ、なぜ殺人は悪なのか、ということを証明できないのと同じで、オウムが間違ってる、とか言えない。そりゃー個人的には、大嫌い、とか言えるけど。どの宗教も最初は狂っていると思われて弾圧されていたんだもんね・・。まぁ、殺人を正当化するような、進化論に反した宗教は広まらないだろうね。しかしゲイ文化とかは進化論に反してるのに受け入れられてるからなあ。何が起こるかわからないなあ。ソクラテスも生きてた頃は異端だと思われてて死刑になったけど、今はたたえられてるんだから、オウムだって2000年後くらいには賞賛されてるかもよ。うぅーーやだなぁーーー。それにしても、オウムの一連の事件はまさに、事実は小説よりも奇なり、だねぇ・・。面白がっちゃ不謹慎と言われるんだろうけれども。そんな事件が起きた時に日本にリアルタイムに居合わせたってことは貴重な経験だったような気がする。

今回オウムのこといろいろ読んでみて、“答え”っていうのは分からないほうがいいのかも、と思った。あれこれ迷いながら生きているほうが健全なのかもね・・・。確信しちゃうと、その真理のためにはとにかく何でもするようになってしまうらしい。ダライラマのような素晴らしい人は暴走しないけれども、普通の人には難しいんだろうなあ。

今日先生に話に行ったらさ、ウィリアムズ(今日知ったけど、この人今年亡くなったんだって。)はすごく難しいから今回のペーパーは違うことを書きなよ、と言われてしまった。えぇーーー、そうだったのか。昨日の日記には、ウィリアムズはちょっと難しい、なんて書いたけど、ちょっとどころじゃなかったのね・・・・。自分でも理解できていないということに気が付いていなかった。それっていちばん厄介だね。わかったつもりになってるっていうのが一番駄目なんだよなぁ。

なんか先生に話に行ったら余計に疑問が増えた。哲学ってそんな感じなんだよねぇ。疑問を解決しようとすればするほどもっと疑問が増えるって感じ。哲学の教授とかはそれにはまって一生疑問だらけな人々なんだよ。私の先生なんか特にそんな感じ。答えなんか教えてくれないもん、っていうか先生自身も答えを分かってないし。分かりたくないようにすら見える。哲学って最初は答えを探していたはずが、いつのまにか疑問を探すだけになってしまったような気がする。そこまで言うのは短絡すぎるけど。・・・うちの大学は総合大学だから院生もいっぱい同じクラスにいるよ。学部生と院生が同じクラスを取ってるのって超変だと思うんだけど・・・でかい大学では結構普通なことらしい。んーーーだからさーー学部生だと真剣に扱ってもらえない気がする。学部生は、できなくて当たり前、って感じ。あんま期待されてないから楽でいいけど、なんかちょっと寂しいっていうかねぇ。学部は単なる教養程度だから、院に行かないと全然ハナシにならん、ってカンジなのよ。

そんなこんなでウィリアムズは難しい、難しい、と脅されて、もう!今回こそ(毎回いっぱいいっぱいになってるんだよぉー。この日記からではあんまそういうふうに見えないかもしれないけど、毎回ほんと死にそうなんだよー)書けないかもしれない、と思って泣きそうだったけどウィリアムズの言ってることはなんとなくわかったからサマリーだけは書いてみた。でもここからが問題なんだよねぇ、批判しないといけないから。自分の意見なんか無いよ。理解するのだけでも精いっぱいだったのにさー、やだなあ。今、深夜になったから提出日は明日だよ。大丈夫かしら。怖ー。そんであさっては数学と中国哲学のテストだしなぁ。数学は、批判しなくていいからその点ラクだね〜。暗記が大変だけれども。あんま考えなくていいから楽だねえ。数学を勉強する意味は個人的にはあまり見出せないけど。まぁ、哲学も、やっぱり、意味あるの?とか考え出すとそりゃあわからなくなるけど、興味があるからやっているだけだね。でも哲学を本格的にやっている人って、好きだからやってるんだーじゃなくて、やらずにはいられない、やらないと気が済まない、みたいな人が多いっぽい。単に、面白そうだから〜、という理由だけじゃ、長くは続けられないのかもね。

なんだか今日(というか最近)は、だらだらととりとめのないことを書いてるだけで全然勉強内容について書いていないね。だってめんどくさいんだもーん。フー。そうそう、来学期のクラス発表されたんだ。ハイデガーのクラス取れればいいなあ。私には大陸哲学と分析哲学は未知の世界なんだけど、トレンディーっぽいよね。最近の若い人はだいたい19世紀後半以降の哲学をやってるっぽいね。私も仲間入りしたい(無理ですか)。比較的現代の哲学者と言えば数年前にフーコー社会学のクラスで読んだけどひどい成績で先生も嫌いだったし嫌な思い出だよ。ふぅ。

coisa2003-10-28

はてなダイアリには写真をアップロードできるんだから利用しないのはもったいないと思って自分の持ってるカントの本(ハケット社の。この出版社は良いね〜)をスキャンしてみた。ちっちゃくて何がなんだかわかんないね。ほぼすべての文に下線を引いているので下線の意味があんまり無いような・・。

ところで、カントについて、しあさってまでにまた別のペーパーを書かないといけない。前回のカントペーパーは絶対rewriteしなきゃいけないだろうと思っていたのにAだったんだよ、奇跡のよう。先生優しいなあ。カントにはNaturalistic Fallacyがあると思うとか、なんかやけくそで偉そうなこと書いちゃったけど大丈夫だったっぽい・・・?そんなもんなのかな、カントって? 素人がそんな簡単に批判できちゃうものなのかしら? 読み進めてみて分かってきたけど、カントって、それぞれの事柄についての考えがジクソーパズルのピースのように組み合わさって全体像が見えてくるって感じがする。causality、 freedom、reasonとsenses、moralityとか、全部ばらばらなようでいて、関係しあってるのだんだんわかってくるから面白いかも。ホントにパズルみたいに、このピースがここに来るのかぁーって感じ。今回はバーナード ウィリアムズっていう現代の人のカントの“原論”の3章についての批判についても書くんだけどーー。この人の文章はちょっとわかりにくいけど(カントとは別のわかりにくさがあるような? 簡潔すぎるからかな?)、結局は、“うちらはカントの言うようなロボット人間じゃなくてひとりひとり個性があるんだよ”と言っている気がする。違うかも。ウーン。どちらにしても、rational beingであるからにはfreedom(free will)を求めないといけない、っていうのにはカントに賛成してるっぽい。あ、でも、カントは、rational beingであるあるからにはfreedomを持っていることが前提だ、って言ってるかも。それだとちょっと違う意見だね・・。

中国哲学のクラス取ってすっごく後悔してたけど最近はもう半分終わったしあきらめがついてきた。まぁ、西洋哲学と東洋哲学の違いが分かって良かった。ていうか全然違いすぎるから中国哲学は哲学って呼ばないで欲しい・・超迷惑。古代の中国哲学って、古代ギリシャ哲学と同じようなものかなーって勘違い(甚だしい)してクラス取っちゃったじゃん。ぷんぷん。哲学じゃなくてただの思想だよ、あれは〜。だってロジカルな根拠が無いからさ。孔子とか孟子とかーー。中学や高校の国語の授業を思い出してすごく嫌なんですけど。けどやっぱ孔子の思想ってほんと日本に根づいてるんだなーって再確認した。アメリカ人から見ればエキゾチックなのかも????しれないけど、私から見ると、ただの独断的なお説教って感じでイヤン、って思った。けどインターネットで探してみれば論語とかの日本語の現代語訳を載せているサイトって結構あるんだね。そんでいろいろ読んでるうちに、孔子って、実際は、うちらのイメージにある厳格な人ってよりも、結構楽しい人だったのかも?と思い始めた。音楽とか好きだったし、なんかイノセントな人かも。好感度アップ。それと、孟子が、“動物が殺される時の悲鳴を聞いた者は肉を食べられないのだ”とか言ってるから、勘違いしたベジタリアンが、孟子ベジタリアンだった、とウェブサイトに書いてるの。でも、孟子はその文のあとに、“だから賢者は台所に近寄らないのだ”と言ってるんだよ。はははーー責任転嫁。ウケル。その他にも、焼肉とかひき肉がおいしいとか言っているし、孟子は確実にベジタリアンでは無かったね。その勘違いしたベジタリアンみたいにout of contextで勝手に他人の立場を解釈する人って多いんだよねーー、ヤダネ。それに、そういう早とちりな人達って、“有名な人がそう言ったから”、っていうだけで立派なargumentになると思っちゃってるからどうしようもない。虎の威を借る狐みたいな。

あと、ちょっと思ったんだけど、孟子ってカントみたい。だって孟子って性善説だし、万物は人間ひとりひとりの中にもある?みたいなこと言って、Humanity、Ritual、Duty、Wisdomのそれぞれ4つを作り出す種はもともと1人1人の心の中にある、って言ったじゃん。だから、自分の周りではなくて、自分の心の中をのぞけば道徳を必ず見つけられる、って言ったんだよね。それって、カントの、“天上の星と我が内なる道徳律〜”とかいうのと似てない? カントは、もちろん孟子よりもずーーーと回りくどい理論を経ていて、結論もすごく複雑だけど、基本的な信条は同じっぽいなぁと思った。孟子は自由についてとかは考えてない気がするけどね・・。それと、孟子って、人の心と社会の仕組みは平行しているみたいなこと言ったぽい(言ってないかも?)からプラトンぽいかも、とも思った。これはこじつけすぎかな? 孟子よりは孔子のほうがいい人そう。孟子って、ただ口が達者で、他人を言葉巧みに丸め込む、っていう風に私には見えた。孔子は、口達者な人が嫌いだったからね〜。

それにしても、今日初めて気付いたけど、中国語や日本語ではmindとheartの区別が無いね。どっちも“心”なんだなぁーー。

最近になってやっと哲学とはどんなものなのかが分かってきた気がする。すごく謙虚じゃないとできない学問のような気がする。でもやっぱり世の中にある書物の中でいちばん難しいと言われているものに挑戦するのはなんか自分が特別な人のようで嬉しい。まぁそんな難しいのはまだ読んでないんだけどね・・。カントはかなーり難しい気がするけど、自分が頭悪いだけかもしんない。もっと難解な哲学者ってたくさんいるもんね。知らないけど。小学生の頃とかは、難しい文章を書く人は偉そうにしたいだけだ、って思ってたけど、最近は、難しい文章でしか表せないことがあるのかもしれないって感じたりもする。その点は謙虚になった。でも、哲学をあまりにも尊敬してるからなのかわからないけど、他の勉強を見下してしまうっていうか。見下すってほどじゃないけどさ、なんか、レベルが違うぜ、とか思っちゃうんだよね。どの分野の勉強に価値を見出すかは、ひとそれぞれだし、哲学をスゴイと思ってる人なんてあんまりいないんだから、偉そうだと思われるとか心配する必要はないんだろうけど。それと同時に、哲学のことまだ全然わかっていないのに、こんなんで専攻したなんて言うのが恥ずかしいというか、遺憾に思うというか。哲学はものすごく奥が深いからなぁ〜。特にアメリカでは大学院に行くのって普通だから、院に入ってからやっと専門的なこと学び始めるって感じだよね。超レベルの高い大学なら違うかもしんないけど。でも日本の大学で哲学専攻している人は比べ物にならないくらい専門的なことを学んでいるんだろうなぁ。高校にいる頃から哲学に4年間をささげようと決心している人っていったい・・・。すさまじいわ。私なんか大学2年生になるまで哲学のこと何も知らなかったもん。もし大学に入学する前に専攻を決めなきゃ行けなかったら、人類学を選ぶという大失敗をしていたんだろうなぁ。恐ろしい。

カントって超ハードコアだよね。偉大な哲学者はみんなハードコアかな? だってconsistentであることにこだわりまくってるからさ。直観だけでは賛成できないことがたくさんあるね。例えば、例外をまったく認めないところとか。Universal lawはいつでもどんな状況でも従われないといけないんだよね。嘘をついてはいけない、っていうlawは完全なものだから、嘘をつくことで誰かの命が助かるとか、そういう異常な状況でも、嘘をつくことは許されないんだ。あと、dutyは、それがdutyだから、っていう理由だけで実行される場合のみ、道徳的になるんだね。嘘をつかない、っていうdutyを、“嘘をつかなければみんなから信用されて人気者になれるから、嘘をつかないようにしよう”っていう理由でやっても、道徳的じゃないんだ。ここで嘘をつかなきゃ、ヤバイぜ、っていう時に、dutyだからしょうがないんだ!って思って嘘をつかないのが道徳的。つまり、人助けするのって楽しいなぁーって思って人助けをしても道徳的じゃない。自分自身めっちゃ落ち込んでて死にそうで、ぜんっぜん人助けなんてしてる余裕無いのに、dutyだから、って思って人助けするのが真の道徳なんだ。キビシーーーよね。理解に苦しむなぁ・・・。カントって、“幸せ”には価値を見出していないんだもんね・・。なぜdutyをするか、というと、それがdutyだから。それ以外の理由でdutyをしたら駄目なんだよ。
疑問・・・dutyは、つまり、rational? dutyは人間に生まれつき備わっているreasonとConsistentなものだから、goodなのかな????? reasonは自然がくれたもの、てことは、自然の法則に従って生きるのが良いことなのかな。でもさ、カントは、自然に逆らって生きるのが自由だ、って他のとこで言ってた気がする。読み間違えたかな。ていうか、カントって、人間はgoodを目指すべきだ、って独断してるよね??そりゃーー、良いことは、もちろん目指すべきこと、に決まってるじゃん?って感じ? そうなのかな? 良いこととかreasonとかどーでもいいよ、って思ってる人にはどうやって説得するんだろうね? そういう人達を説得する気はもともと無いのかな?(スマートみたいに。)
基本的に、good willとdutyの関係が不明。同じものなの? "we shall take up the concept of duty, which includes that of a good will" このthatってどれを指してるのかな。duty of a good will じゃなくて concept of a good willかな。多分そうだね・・。 dutyの中にgood willが含まれているのか good willの中にdutyが含まれているのか?それとも含む・含まれる関係では無いのかな。なんなんだろう。・・・多分、concept of dutyにconcept of good willが含まれていると見た。わけわかんないけど。・・・あ、でも文章全体を見たら意味違うかも

we shall take up the concept of duty, which includes that of a good will, though with certain subjective restrictions and hindrances, which far from hiding a good will or rendering it unrecognizable, rather bring it out by contrast and make it shine forth more brightly.

久しぶりに引用ブロックを作ってみた。つまりdutyの中にgood willは含まれてるけど、only some parts of good willってことかな。 dutyを調べてみればgood willが輝くの? ちょっとロマンチック?

いやーー、今のところ、道徳形而上学原論のセクション1までについてを書けばいいだけなんだ。去年、純粋理性批判をちょこっと読んだんだけど(causalityについて)、“原論”のほうが読みやすい気がするね、っていうか薄っぺらいから気分的に良いのかも。薄っぺらい本というのは好感度大だね。でも道徳形而上学原論という日本語訳は堅すぎない? 英語だと、Grounding for the Metaphysics Of Moralsだよ。Groundingっていうと、基礎固め、って訳したほうが意味がわかると思うなあ。原論って何よ?って感じじゃん。道徳の形而上学のための基礎固め、とかそんな感じに言えばいいのに。でもそれじゃ格好がつかないね。哲学の日本語訳は変なのが多い気がするね。形相と質料とか。英語訳だとformとmatter、っていう日常生活で普通に使う言葉になってるからわかりやすいのに。形相と質料なんて、わけわからん言葉だなぁーホントに。日本語の翻訳者はカッコつけたがりなのかな。

“原論”のセクション1については、なんとなく流れがわかった。1. good willがたったひとつのホンモノのgoodであって、すべてを評価する上でのコンディションとなるものである。他に良いと世間で思われている性質(賢さ、権力、名誉、健康など)はgood willがなければ悪いものになってしまったりするから、good willのほうがhigher good。2.うちら人間は理性を持っているんだけど、理性はうちらを幸せにはしてくれない。理性なんか忘れて動物のように生きていた方が幸せだから。理性の目的は幸せではなくてgood willである。(なんでここでイキナリ、理性→good will と展開するのかが謎、とうちの先生が言っていた)3.うちらの理性によると、Universal lawになってほしいと思えることしかやっちゃいけない。(なぜ理性がそう考えるのかはカントも知らないらしい)
この他にも、good willは常にそれ自体がendでありmeansにはなってはいけない、とか、同じ結果になっても意志によってMoralかMoralではないか、の違いが出る、とか、言っているね。つまり悪い結果になったとしてもgood willがあったのなら、moralなんだ。結果しか気にしないUtilitarianとは正反対だねぇ

ところでこのあいだのスマートのペーパーはAだったんだ。ほっとしたわ。でも先生からのコメントは批判だらけだった。誉めてくれたのは題名だけ。先生、スマートが言う“悪い快楽”(他人を傷つける行為が介入する快楽)と“低レベルの快楽”(ミルと同じ考え)っていうのを同じだと思ってるんだよ。私は違うと思うんだけどなあ。低レベルの快楽は一応幸せのうちに入るけど、悪い快楽は幸せじゃないじゃん、スマートにとっては。